深い深い水の底に落ちてゆくような感覚。
もうなにも見なくていいよ、なにも聞かなくていいよと言われているような気がする。ここならあんな音は聞こえない。ここならあんな景色は見えない。ここなら、涙も溶けてなくなってしまう。
何もかも、忘れてしまえるよ。
遠くで自分を呼ぶ君の声がする。
――あぁ、起きなきゃ


 まだ鳴らない目覚まし時計に目をやる。夏休みも半ば、自分としては早く目覚めてしまった。平積みされた宿題、投げ捨てられた鞄の下で雪崩れ落ちているアルバムから覗く写真
――そうか、今日は……

 太陽がジリジリと容赦なく照りつける。日陰なんてありやしない。珍しいわねと言いながらも快く送り出してくれた母がカレンダーにちらりと目をやるのに気付かないふりをしてスニーカーをひっかける。
――帰ってあの宿題の山を何て言い訳しようか

問題はこの先なのだ。あいつの家の前を通らなければ、あの場所へは行けない。
「亮輔!」
ほら来た。
「今日は……」
「わかってる」
「それまでには戻って来なさいよ?」
「当然」
「どこ行くのよ」
面倒臭い。そんなに言うなら早く行かせてくれとため息を飲み込む。
「今、面倒だと思ったでしょ」
妙なところで勘がいいからまた腹が立つ。
「デート、かな」
「はぁ?」
最低。と一言吐かれる。それもそうか。
「嘘、嘘。買い物だよ。」
ふうん、と俺の頭からつま先まで眺めてつぶやく。
「まぁ、いいわ。とにかく遅れないでよね」
やっと解放されたと息をついて靴先を地面に二、三度軽く落としてから、ふと思い出して振り返る。
「茜」
「なによ」
「涼菜の好きな花ってさ……」
「ひまわり、よ」
蝉の声を背で聞きながら、また歩き出す。

 約束なんてしていない。そこにいる保証なんてない。それでも頭の奥で何かが告げる。走れ、と。
 ――もう一度、もう一度だけでいいから
辿り着いたそこに、一番会いたかった後ろ姿が見える。
「涼、菜」
驚いたように振り返ったその口が動く。
 ――本当に会えた。と
その顔をみただけで表情が緩む気がして目を逸らす。
「目立つから被っとけ」
やや乱雑にその頭に野球帽を被せる。
「あ、これ……」
「あぁ、片づけしてたら見つけた」
嘘だ。片づけなんてこいつが最後に来た日以来、まともにしてやしない。出がけに焦って探したんだ。それを見透かしてか、いざ知らず、ふわりと笑って被りなおす。
 ――あぁ、好きだな。
「それにしても、ようここがわかったね」
訛りと標準語が混ざった独特の話し方が、凛とした声に乗る。たった一年でこんなにも懐かしい。
「好きだろ、ひまわり」
くすくすと笑い始める。
「嘘。忘れてたやろ」
まぁ茜にでもつかまってんねやろな、と続ける。昔から勉強も運動も俺の方ができた。だが、どういうわけか昔からこいつにだけは嘘も隠し事もすぐに見破られてしまう。
そんなことを思っている間に音もなく通りへと向かって歩いている彼女を追いかける。
「こら、先行くな」
「しゃぁないな。こっち来るの久しぶりやし」
ころころと笑いながら駆け出そうとするその手をつかむ。
「今日は、な?」
手を繋いで通りとは反対に歩き出す。太陽が真上に昇る。足元に、影はない。
 歩きながら唐突に涼菜が言った。
「ひまわりって、ずっと太陽だけを見つめてるんよ。せやけど、太陽はね、ひまわりだけやのうて、みんなを平等に照らしてるんだよ」
意図が掴めないまま、話を変えられてしまった。

 一年ぶりに来たその丘は、まるで時間が止まったままかのように、静かに俺たちを迎えていた。山のようにあったはずの話題はぽろぽろと零れるように尽きていく。雲が流れて、木漏れ日が狭そうに揺れる。ゆっくりと流れる沈黙。それを破ったのは涼菜だった。
「後悔してない、って言うたら、嘘になるかもしれんけど」
静かに俺の方を向く。風が髪をふわりと持ち上げる。
「もし、あの時動かなかった方が、きっと後悔したと思う」
黙って、続きを待つ。
「だからさ、亮輔。あんまり責めんといて。なんも悪くないよ。これは、私が選んだことだから」
泣きたいくせに無理して笑うその顔に、どれほど甘えてきただろう。
気づいたら力任せに抱きしめていた。
今さら何を言っても足りない事もわかってる。
だからせめて――
しゃくり上げる細い肩を撫でる。いつからみていないかな、こいつの泣き顔なんて。ごめんなんて言葉は、あまりにも軽くて頼りない。
「好きだったよ」
「なんで過去形なんだよ」
「好きだよ。これからもずっと」
これが最後なんだと、もう終わりなんだと告げられた気がした。
「何一つ忘れたりせぇへんから。私は。」
このまま時が止まってしまえばいいと思った。
「もう行かなきゃ」
日が真上から少し傾く。風は凪いでいるというのに、体温は上がるどころかじわりじわりと下がっていく気がする。
「また、いつか――」


「遅い」
「いや、時間五分前……」
「みんな待たせてたんだから、遅刻も同然よ」
反論しかけた口を閉じる。
「じゃ、行くか」
影が、少しずつ形を取り戻す。

 古びた、でも見慣れた写真がそこにあった。おばさんがおいたのか、それとも……
ぼんやりと考えながらみんなを横目でみる。夏の日差しに当てられて色あせたそれが飛ばないように、右手に持ったものを手向ける。
「あ、それ」
「さっき探した。」
こんな立派なのよく見つけたねと言いかけた茜がはたと顔を上げる。
「行ったんだ。あの丘に」
「あぁ。何も、変わってなかったよ」
揺れるひまわりを見下ろしながら答える。
「まだ、責めてる?」
遠慮がちに問うてくる茜の方は見ずに答える。
「あと二分早く出ていたら、あいつは事故に遭わなかったんだって、そりゃ何度も何度も後悔したよ」
話す素振りで自分に言い聞かしているようだった。
「どんなに悔んだってあの日には戻れないけどさ、これから先もずっと好きでいることはできるだろ」
その場にしゃがんで、手を合わす。
瞼の裏に君を描きながらゆっくりと目を閉じ
る。
 ――なぁ、やっぱり無理だよ。他の誰かなんて。
 だから、また生まれかわったら真っ先に君に会いに行くよ。
 それまで、おやすみ。

 傾いた日に雲を運ぶように吹いた風に涙が
溶ける。蝉の声が耳に届く。
 揺れたひまわりと君が重なる。
 ――あなただけを見つめています
 色あせた写真、一面ひまわりのその丘の中に立つ小さいころの俺たち。今より少しあどけないその笑顔の後ろで、やさしい黄色が、ふわりと揺れた気がした。
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