「あ。」
 ハチミツの残りが、もう、ほとんど残っていなかった。
底の方に溜まるそれは、ビンが満たされていたころの色など忘れたかのように淡く、申し訳程度に、蛍光灯の光を反射していた。
 紅茶をもらったのだ。いつ知り合ったのかも曖昧なほど長い付き合いの友人が、いつもの如くふらりふらりとどこかへ出かけたときに見つけたのだと、小さな缶を渡してきた。
ほんの少し、オレンジの香りがする、イングリッシュティーだった。
 日の出前に目が覚めて、時間を持て余していたところで、ふと思い出したのだ。あのとき彼女に、ハニートーストが合いそうだ、と言ったことを。
眉間に皺を寄せて、ハチミツのふたを閉める。冷蔵庫からベーコンと卵、チーズを取りだして並べ、電気ケトルのスイッチを入れる。
 思い描いた通りに事が進まないのは、嫌いだ。だが、予定に穴ができるのは構わなし、手帳もいつも白紙に等しい。不思議な性格だと、事あるごとにひとに言われる。

手に泥がつくのは平気なのに、お菓子の粉が指先につくと、不機嫌そうな顔をする。
花や草に触れるくせに、食卓に花瓶が置かれるのは嫌がる。
部屋は散らかっているのに、キッチンはいつもきれいに磨きあげられている。
知らない人とぶつかっても気にしないのに、嫌いな人に触れられると顔をしかめてそこを拭う。

 いつか誰かに教わったモーニングトーストを作りながら、一人、思い返す。
潔癖症ではない。部屋が散らかっていて平気な潔癖症なんていてたまるか。
神経質なのね。顔も名前も思い出せない誰かに言われたことがあった。面倒臭いでしょう。と笑った気がする。

 程よく焼けたパンを皿に移したところで、パチッとお湯が沸いた音がする。ティーポットに熱湯を注ぐと立ち上がる香りに、やっぱりハニートーストがよかったと恨めしく思う。
はたと立ち上がって、ハチミツの便を手に取り、食卓へと持っていく。ティースプーンで、底についたその淡い黄色を絡め取り、ティーカップの中に溶かす。
作り終えたトーストを一口口に入れてから、ミルクとハチミツのたっぷり溶けた紅茶を啜る。
「……甘い。」が、きらいでは無い。
 タブレットのページをめくるリビングに、ふわり、紅茶の香りと朝日が入る。スマホのディスプレイが告げる、土曜日、午前5時30分。そうだ。今日は土曜日だ。先週買った淡い黄色のシャツを着て、青山にでもいこうか。
ハチミツ色の光の中で、ぼんやりと描きながら立ち上がる。

 彼女に、レンゲのハチミツを。
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