「恋を、しているでしょう?」
 「は?」
 思わず頓狂な声を上げた、夕方四時過ぎの図書室、貸出カウンター内。作業をしていた手を止め、唐突に問うてきた声の主を見る。ロの字型の校舎の西塔、西側の窓から入る夕日が逆光になって、薄ぼんやりとしか見えないその顔が、今どんな表情をしているのか、見なくてもわかる。美人と評判の彼女――図書館司書の先生の口元は、きっと、いや、確実に楽しそうに持ち上げられている。
 「なんですか、急に。」
 「いや、ため息が多いなと思って。」
 幸せ逃げるよ。そう言いながら隣の返却カウンターへと腰を下ろす。
 「そりゃあ貴重な放課後に、こんな単調な作業ばかりさせられたら、誰だってため息くらいつきますよ。」
 新しく入った本、一冊一冊の表紙をラミネートしていく。透明なシートの上をするりと滑ったカッターが、下敷きにしているゴム板に刺さって、ひっかかる。
 「あら、こんな、なんて言っちゃいけないわ。大事な作業よ。」
  友達待ってる間暇なんで、ってあなたが言ったんでしょ。そう言いながら紅茶のカップを口まで持って行く姿が妙に様になっていて、腹が立つ。新調した本と、返却された本に混ざっていた、洋書がふと目に入る。これはいったい何語だろうか。古びた表紙に彫りこまれた、タイトルらしき金色の文字が、夕日を受けてきらきらと光を帯びる。
 「世界が、綺麗に見える。」
 「は、」
 「今までは気にも留めなかったような物が、突然綺麗に見えはじめる。」
 あぁ、さっきの話、まだ続いていたのか。
 「先生、うち、女子高ですよ。」
 「あのねぇ、恋は絶対学園物って決まってるわけじゃないのよ。そりゃあ、王道だけど。」
 「少女漫画の読みすぎじゃないですか、それ。」
  ため息混じりに先生を見やる。窓から入つ西日が、先生の茶色がかった髪に吸い込まれて、ゆらり、ゆれる。海に近い丘の上に建つ校舎の西側は、夕日がよく映える。柔らかい日の光に乗って、グラウンドや体育館、中庭から聞こえる運動部のかけ声が、別塔で奏でられている未完成のオーケストラと混ざりあって、不協和音になる。
  「しかし君、恋は罪悪ですよ。」
  「……漱石、ですか。」
  「果たして、恋とはほんとうに罪悪なのかしら。」
   静かな口調に反して、口元には相も変もらず、新しい遊びを見つけた子供のような笑みが浮かべられている。
   「さぁ、そもそも、恋なんてした事がないので、何とも。……先生は、どう考えるんです?」
   「ふふ。そうね、私は……」
    窓の方に歩み寄り、グラウンドを見下ろしながら、独り言のように続ける。
「そうねぇ。恋をすることそのものが罪悪
なんじゃなくて、自分が恋をしていると気
づかないでいる人が、罪悪なんじゃないか
しら。」
先生の方が、恋でもしてるんじゃないです
か。そんな言葉を飲み込む。元々こういう人なのだ。詩的な言い回しも、唐突な問いかけも、今に始まったことではない。
 「で、どんな人なの。」
 「……手――手が、綺麗なんです。」
 恋なんてしていない。はずなのに、意に反して、口を突いて出てきた言葉に、自分で驚いた。
 「手?」
 首を傾げて聞き返す先生の横を通り抜け、ラミネートを終えた本を、書棚に並べるべく、静かに並ぶ本の海へと足を進める。
――恋、ではない、のだと思う。そう呼ぶには何かが欠けていて、それでいて、何かもっと別のものがそこには存在しているように感じるのだ。だが、恋をしたことがない私には、それが何かはわかり得ない。
 一通りの本を棚に仕舞い終え、カウンターに戻る。気がつけば、5時を少し回っていた。
 「あら、お迎えが来たようよ。」
 やっと一息ついて開いた本から、顔を上げる。
 「……遅い。」
 「ごめんごめん。」
 私を待たせていたことなど忘れているかのように、へらりと締まりのない笑みを浮かべるこいつがクラス委員長だなんて、できれば信じたくはない。が、気立ての良さと意外にもしっかりしていることゆえの人望は、傍から見ていて、確かなものなのだとわかる。
 「……手。」
 「え?」
 「汚い。」
 一瞬きょとんとした後に、自分の手を見て、あ、と小さく声を漏らす。ひらり、振られたてのひらに、淡く鮮やかな色がまだらに散っている。
 「HR委員会の集まりじゃなかったの。」
 「それは4時半に終わったよ。」
 自由を具現化して、服を着せたような人間だ。
 「……はぁ。帰る支度するから、その間に、手、洗ってきてよ。」
 はぁい、と間延びした声を発して、図書室から出ていく。彼女は、放課後ふらりとどこかへ消えて、いつの間にか手を鮮やかな色に染めて、完成した絵を片手に戻ってくる。驚くほど透き通った、透明感のある絵持って。A5サイズの小さなスケッチブックに、抜けるような空を、波打つ海を、無限に広がっていそうな星空を、実物よりもずっと、ずっと澄んだ色で描き上げる。同じ景色を見ていても、彼女には違う色が見えているんじゃないかと思ってしまう。
 「洗ってきたよ。帰ろ。」
 「はいはい。じゃぁ、先生、さようなら。」
 「はい、さようなら。手伝い、ありがとう
 ね。」
 小さく会釈をして、すっかり人もいなくなった図書室を後にする。

 長く伸びた影を追いかけるようにしながら、駅までの道を歩く。
 「……委員会、何だったの、議題。」
 「あぁ、議題ってほどじゃないんだけどね、
 一言目から、寄り道するなー!って、生活
 指導が、物凄い顔してた。」
 無理だよねー、そんなの。相変わらずの間延びした声と笑いに相槌を打ちながら、ふと考える。最近、絵を見せてもらっていない気がする。そう思いながら彼女の横顔を見る。
 「あ、そうだ、これ。」
 唐突に振り返り、手渡してきたスケッチブックを、両手で受け取り、ゆっくりと開ける。息を、飲んだ。きらきらとした金色の光を浴びながら、一人、本を読む少女が描かれていた。空気すらも、光さえも、こんなに透明で、それでいて確かにとそこに存在することを、彼女は筆一本で、証明してしまう。胸が高鳴るのが、わかる。
 「私、あんたの絵、好きだよ。」
 「えー、絵だけ?私は?」
 楽しそうに笑いながらの問いかけに対する答えを、沈みかけた夕陽の光の中に、探す。
 「そうだな、肉まんの次くらいかな。」
 「それ、どのくらいの位置なの?」
 「冬には重宝する。そんくらい。ねぇ、肉 
 まん食べに行こうよ。」
 「寄り道しちゃだめだって、人の話聞いて 
 た?」
 言葉に反して楽しそうにくすくす笑う彼女に、おごるからさ、と言いながら、スケッチブックを返す。
 彼女が好きだ。それはきっと、恋だとかそういうものではなく……私よりもやや小さくて白い手に、鮮やかな色を纏わせながら作り上げる、彼女の世界が、好きだ。

 「なるほどねぇ。」
 無人の図書室の窓辺で、今日一番の笑みを浮かべながら、紅茶を啜りながら呟く先生を、私が知るよしもない。
 「そうだね、今だけだ。ただ純粋に、好き
 だ、と思えるのは、今この一瞬だけだ。」
 少女たちの背中を、西日の金が、淡く縁取った。
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